昭和46年03月08日 朝の御理解



 御神訓 一、「障子一重がままならぬ人の身ぞ。」

 障子一重がままならぬ人の見ぞ。神様のおかげを頂かなければどうにも出来ない私達。神様のおかげを離れてはどうすることも出来ない私達。これはいよいよ信心の道を進ませて頂く根本のところ、根本の考え方をいう。それが人間の実相だ本当の姿だ。天地金乃神様のおかげを頂かなければ、ここ一寸動かれない私達であると、そういう自覚から本当の信心を求めて行くことが出来る訳でありますね。
 ところがいわゆる無力吾れと、言う事ですね。吾れ無力なりという。その無力の私達がです、信心をさせて貰い、いわゆる実意丁寧神信心をさせて貰うて、徳を受けて参ります。いわゆる力を受けてまいります、そうすると無力の私が有力の私と言う事になってきます。だから障子一重がままならぬ人の身であるという自覚からね、神様のおかげを頂かなければ出来ることでなしとする生き方から信心が段々本当なものになって來る。
 その信心が実意を極め、丁寧を尽くさせて頂いての信心になって参ります時に力を受ける。お徳を受ける。そのお徳がそうなのです。立教神伝にあります様に天地の神様が教祖金光大神に向かって神頼みをなさって居られる。天地金乃神を助けて呉れとまで云って居られる。此の方の様に実意丁寧神信心を致しておる氏子が世間になんぼうも難儀な氏子がある。取次助けてやって呉れと。
 だからここのところを、この方の様に実意丁寧神信心している氏子が世間になんぼうも難儀な氏子がある。その難儀な氏子を取次助けてやって呉れ、いわゆる実意丁寧神信心というそのことがです、人を助けることの働きが出来てくる様になる。だから実意丁寧神信心を致しておることは、お前が徳を受けておると言う事。おまえの徳に依って難儀な氏子を取次助けてやって呉れとこう言っておられる。
 だからここのところをです、どういう風に頂くかというとね、実をいうと教祖生神金光大神も力はありなさらんけれども、障子一重がままならぬ人の身であること。あなたのおかげを頂かなければ立ち行かぬ私であるという自覚から、いわゆる実意丁寧の限りを尽くしての御信心をなさった訳です。次々と難儀なことが教祖の身の上に、家の上に起きて参ります。そうだなと気付く程しの事が次々と起きて來る。
 しかも世間では信心文さといわれる程しの、あだ名をされる程しの手厚い信心をなさっているにも拘らず次々と難儀なことが起きて來る。その様な時でも教祖様の姿勢というか、信心姿勢というものは人間氏子のことで相分らず、何処にお粗末があるやら御無礼があるやら相分かりませずという姿勢でおられた訳ですね。これ程信心するのにどうしてこんなになるのかと言う事でなくて、人間生身を持って居ることでございますから、どこに御粗末があるやら、御無礼があるやら分かりませんと。
 自分のお粗末御無礼そのものを改まって行こうとなさる姿勢を示しておられます。そこからね、いわゆる金神様と拝んでおられた、その金神様が天地乃神と天地金乃神と段々表れる姿が、いわば変わって見えられた。世間では悪神、邪神の様にいう、言うならば金神様に向かってそうであった。そこのところを実意丁寧神信心とはそう言う事であろうと思う。人間生身人間凡夫の自覚。
 何処にお粗末御無礼があるやら分からない。そこのところを平に平に御許し下さいませという実意の限りを尽くして、尚且つ詫び、願いなさって行かれた訳であります。そこから天地金乃神と云う神様が悪神邪神の様に思うておった。猛威るたくましくなさる神様。知って向かえば命を取る。知らずに向かえばお目を取るという程しの神様と思うておられた神様が、言うならば慈顔溢れるばかりの天地の親神様であると言う事を示されるようになられた、ところが今度は天地の親神様の方から金光大神に御礼を。
 一礼申すとか又は、金光大神そなたの信心に依って世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次助けてやって呉れと云う神頼みをなさる程しになって来た。しかも天地金乃神と同根とまでも唱えられた。天地の親神様が唱えて居られる。そこんところをどんな風に頂いたら良いかと思うんですけどね。結局、言うならば私共の姿というかね、無力も無力、本当に障子一重がままならぬ身であるというその自覚というもの、言うならば木の葉に溜る一滴の様なもの。
 その一滴が落ちて枯葉枯れ枝の下をくぐって谷間に流れ落ちる。その谷間の水が川に流れ、そして大海に注ぐ。その一滴の水がもう一滴の水でなくて大海の水になっておる。ここのところがその過程に於て徳を受ける、力を受ける。言うならば人間即神という過程ですかね。此方のことを生神生神というが、皆も同じその様なおかげを受けられる。この方がおかげの受け初めであると。人間なんである。けれども即私共の心が神に向かうて行くところから、即神と云う。人間即神というところになっておる。
 そこに神と同じ力を表す事が出来ると言う事になる。
 障子一重がままならぬ人の身ぞ。私共には本当に障子一重の向こうのことが分からんのである。一寸先は闇の夜である。その一寸先は闇の夜であるところの私達がですね、その自覚に立って、いわゆる人間凡夫のことで相分からずと、何処に御粗末御無礼があるやら分からないと云う姿勢。どんな場合でもそういう姿勢をもって実意丁寧神信心を続けて行くところから、お徳が受けられる。そのお徳そのままが力である。
 無力の私達がそこに有力の私達と言う事になる。どうでもその力を頂きません事にはね。それから先が神の願いなんであります。私共が信心して徳を受けて力を受けてその力をもって世の中の難儀な氏子が取次助けられて行くその働きを私共がさせて頂かなければならない。世の中の光にならせて頂かなければならん。そういう私共が願いを持っての信心にならせて頂こう。
 昨日福岡の桜井先生の奥さんがお参り。それが余りに有難い、勿体ないお夢を頂かせて頂いたから、この事をお届けせねばならんと言う事でお参りしてお届けに見えた。と云うのはね、丁度普通の床の間みたいな低い感じの床があって、そこに神様がお祭りしてある。そこにね、三代金光様が一心に御祈念なさって居るというお姿であった。神様が中心にお祭りしてあるその。
 両サイドの処に何か緻密な機械がいっぱい入っているという感じである。そして御祈念を終られて、やおらお立ちになって金光様が桜井先生の奥様に向かって、榊の木を持っ来て呉れと云われた。そこではいと言って答えて採らせて頂いたのが、菊の芽が出ている。まだ花が咲いてない菊の一枝を差し上げた。金光様がその菊の芽の処を一寸お摘みになったら、それがたちまち榊の木になったというお知らせであった。
 もう勿体のうして勿体のうして、どう言う事か分からんけど、勿体ない。金光様榊の木を呉れと仰せられたのに、私は菊の芽を差し上げた。ところがそれが榊の枝に変わったと云うお知らせでございましたが、どう言う事でございましょうかとこういうのである。私はその事を神様にお届けさして頂きよりましたらね、合楽の願いは神の願いと聞かせて頂きました。合楽の願いは神の願いである。成程ここでは菊と、菊と云うのは椛目の時代から神愛会の時代から、菊のはなの中に八波の御紋章が入っておる。
 それがバッジなんか残っております。菊は当時の椛目の信心のシンボルだというて大事に、そして菊栄会なんか出来たのはその時代でした。菊の花いわゆる喜び久しい、菊の花の様な薫り豊かな気品がある。そういう信心にならした頂こうという願いを私共が菊の花。菊の花はそのまま合楽の信心だと言う事。それは勿論まだ花も咲いていないのでしょうね。まだ芽のでておる菊の一枝である。
 まあ合楽の信心はそういうところであろうかと思うのですけど、それはそのままね、そのままが神の、榊という字は木遍に神という字が書いてありますね。だから木遍に神木は心ですから神の心、神ノ木神の心という意味です。合楽の願い即神の願いと云う訳です。いわば今私が合楽で願っておる事、その願いはそのまま神様の願い、だからどうぞ皆さん合楽の願いに立たなければいけません。皆さんの小さい願いであってはならんのです。只自分が立身出世すれば良い、自分の家庭円満であれば良い。
 先日或方が、二十年間信心しておられる方が、只良か婆しゃまになることだけを願いよりますといわれるが、果してそれで良いであろうか。私共の願いがどうでも大きくなると云うのではなくて、合楽の信心、合楽の祈り、合楽の願いにですね私共が添うておらなければいけないと言う事なんです。合楽にお参りさせて頂いておるから神様がお知らせ下さった様に合楽の願い即神の願いであるといっておられるのではないのです。
 私が取分け去年あたりからいうておりますこと、人間の住む地上にです、全ての人間氏子がです、人間の本当の幸というのは心である。しかもその心は和らぎ、賀びであらねばならない。いわゆる和賀心でなければならない。その和賀心におかげが伴うのである。人間の幸福の全てがこれに伴うて來るのだ。その和賀心時代をです、世界の隅々までそれを知って貰いたい、それを分かって貰わねばならない。為にはね私が今いった良い婆しゃまにならにゃならんことも、その中に入る訳なんです。
 良い婆しゃまにならせて頂くことはです、和賀心の、いわゆる和ぎ賀び何処から見ても喜びがいっぱい持っておる年寄りにならなければならんが、その喜びの心をもって全世界の事が祈れる、願えれる、自分の周囲の事が願われる。世界の事が願われる。いうなら自分の隣近所の事が願われる。自分が今一生懸命に信心さして頂いて、和賀心をもって自分の家の庭先を掃いておる。
 その庭先を掃いておることが自分の家の前だけきれいになれば良いのではなくて、その自分とこの庭先を掃いているそのことが世界の一部が清まっているんだという思いにかえなければならないという。自分だけがよか婆しゃまじゃいかんでしょうが。自分自身がよい婆しゃまになると言う事が世界の一部が明るくなった、清まると言う事につながった願いを持っておかなければならん。どうぞ一つ皆さんにね、言うなら私がいうておるその事に協力なさると言う事。
 千人なら千人の合楽の信者が、その同じ方向なら神の願いであるところの願い、それに向かって私共が願わせて頂ける時初めて皆さんの信心も合楽の願いが神の願いと言う事になるのです。合楽の願いは神の願いなのです。だから貴方がた一人一人が私の願いが神の願いであるかどうかを確かめて見なければいけない。いや家の息子が試験が出来ることだけをお願いしよる。いや私はうちの子供の病気が治ることだけを願いよる。家はお店の繁盛の事だけを願いよる。その願いはね一生懸命願って良いのです。
 けどその願いの成就した暁にです、その事が神の願いにつながっておらねば駄目だということ。健康の事願うことも、私が健康にならせて頂く事に依ってです、世の中少しでもより明るくなると言う事につながるのです。だから皆さん、もう人の事は知らんと言わずにね、そこんところを切実に祈れれる。同じ事でしょうが、そしてそれであればただ我情我欲の願いになるのです。どんなに商売が繁盛します様に、農作物が良う出来ます様にであったら、只我情我欲を願うだけなんです。
 けれどもそれがね、社会が明るくなる為につながっておる事になるところに大変に意味が違って來る訳です。障子一重がままならぬ人の身の自覚が出来る。だから、すがらんでおれんのである。だから神様すがるなと仰っておるのではない。それこそ縋らなければ神様の方がお淋しい位であろう。けれどもその縋っておることの内容が、世のお役に立たせて頂きたいと云う祈りであり願いでなからなければならない。
 それが商売繁盛のことでも健康のことでも、世のお役に立たせて頂くことの為の健康であり、商売繁盛の為でなくてはならん。そこんところがすっきりすることの為に本気で私共はね、障子一重がままならぬ身である。あなたのおかげを頂かなければ立ち行くことではないことの事実をね、一つ実感さして貰える信心がまず必要になって來るのです。昨日は日田の中野さんところのお父さんの式年祭がございました。
 日田の山奥からも御親戚の方達が集まられましてね、親類の方達集まられましたら全部で十九名、後から一人思いがけなく見えた方も知らずに、こちらに便があったのでお参りさせて頂いたら丁度霊祭と云うので玉串を上げて帰られました。と云う様に有難い御霊様の御祭りでございましたが、私は昨日程それを実感させて頂いたことはございませんでしたが、こうして難儀な氏子が取次助けられることだけでなくてね、この世でだけでなくてあの世、あの世に行っている人達までがです。
 取次助けられる事の出来れる、御霊の喜びを受けられると言う事は何と有難いことだろうかと私は思いました。その前の日は東さんところのお父さんの五年の式年祭でした。それに東さんのお母さんのお母さん、お祖母さん丁度式年になっとりましたので一緒にありました。そしてお祭りが済んでから東さんのお母さんがね、先生私の方の母は本当に助かっとりましょうかというて、まあ誰でも尋ねたいですよね聞かれました。
 私がそれに対して申しましたことはね、他の霊様、それこそ人間の世界と同じこと、シャンシャンしとるとが、居るかと思うとを、羽打拓らしたのもいる。様々でしょうが、その自分の周囲の御霊様達からね、羨ましがられて今日はこのお祭りに臨んだと言う事。皆んなの御霊様から羨ましがられて、このお祭りに臨んだと、如何に子供達やら孫達の真心をね、天地の親神様が喜び給うて御霊様にたとえ一時的であってもおかげを下さってあったと云うことを感じられます。 
 昨日私その中野さんところの霊祭を仕えさせて頂いてから、非常に強く感じさせて頂いたことはね、あの仏教でいう輪廻、いわゆる生まれ代わると言う事。人間は人間に生まれて來る為にも大変なところを通って生まれ代わって、生まれ代わってそれこそ天文学的数字でなければ分からない程しの年数を経て人間に生まれてきておるんだ。私はこう言う様な、私は仏教の事はよく分かりませんが、それこそお釈迦様という大宗教家が言われた事であるから嘘では無かろうと私は思う。
 或意味に於て、例えば金光大神の仰ったことはもう神様の仰った事として頂く様に、お釈迦様の言葉を矢張り神ながらに受けることが仏教信者のあり方、姿勢でなからなければならんと思うのです。ですから、私皆さんに申しました。折角人間に生まれて来て居るのですから、本気で魂の清まりを願わなければいけませんよ。魂の清まりに精進しなければなりませんよと。
 そして昨日の御理解じゃないが金光大神は形が無うなったら氏子が来て呉れというところに行ってやると金光大神がいわれる様に私共世の中の為に、又は子孫の為に来て呉れというところに行って上げて働きの出来る位な、私は力を受けとかにゃなりません。それには魂が清まっとかにゃなりませんが。なら折角この世に何千年か何万年かかってようやく人間に生まれ変わってきておりながらです、又我情我欲で一生を終ったという魂は又次にこんど人間に生まれ変わるまで。
 どの位それこそ、牛やら馬やらもっと下等なものに生まれ代わらなければならんかも知れん。そう言う事ではいけない。僅か長生きして百年です。五十年か百年かの人生。この間を本当に修行の時代として本気で魂を清めておかねばいけん。それこそ私共があの世で清まった魂ならば生まれ変わることがいらん。生まれ変わらせて分からせようという天地の働きであろうとこう思うのです。けれども生まれ変わらせても生まれ変わらせてもその悟りが出来ない。
 そしてようやく人間に生まれてきたけれども、まだ分からん。そして我情我欲ばかりで、又仕舞える、又何億年か先にその間に大変きつい、例えば牛馬、猫やら犬にどん生まれ変わって来る様な事じゃいけんじゃないかと、魂を清めてさえ行けばあの世に、それこそ子孫の為にも来て呉れというところに行って上げて働きの出来る程しの力を受けなければいけない、その力を今日私は徳という。人間は無力である。全然障子一重がままならんのが人間の実相だ。
 けれどもその人間が、いよいよそこのところの自覚が出来て、人間で出来るだけの実意丁寧神信心させて頂いて、徳を受けよう力を頂こう。それには魂が清まらなければいけない。魂の清まりに一生を懸ける。一生が修行じゃと、その魂を清めることのために一生修行するのだ。その事は本当か嘘か知りませんけれど、仏教の教えの中からいうと生まれ変わらんならんと、折角人間に生まれて来たのだから人間に生を受けている間に本気で魂の清まることに一生を懸ける訳である。
 そこにあの世でおかげを受けている御霊として安心の御霊として、又は子孫、社会の上にも働きのである御霊としてのおかげを頂かせて貰える為にもね、私共が本気で魂を清めとかにゃいかん。その清まった心をもって実意丁寧神信心さして頂くことに依って私と云うたった一滴の水がです、大海に打ち出されるとき、もうそれは一滴の水ではなくもう大海の水である。神様と同じ働きが出来るんだ。大変なことでしょう。もうとてもとても我情我欲なんかいっておられません。
 そこで例えばそれは或場合には我情我欲であるかも知れません。商売が大繁盛致します様に、健康になります様にということであったり。それは我情我欲を願っておるけれども、そのたとえおかげを頂いた暁がです、その頂いたおかげをもって、世のお役に立たせて頂こうと云うことになるときに、それは清められた事になるのじゃないでしょうか。合楽の願いはそれなんだ。
 合楽の願いは即神の願いであるとお知らせを頂いておられます様に、私はその事を聞いてからいよいよ私の行き方、私の願いというものに自信を持った気が致します。だから皆さんもその願いをなさることに依って確信に満ちた生活、信心生活が出来れるおかげを受けられると言う事がです、合楽に御縁を頂いている信奉者のこれが有難いと言う事になるのじゃないでしょうか。
 合楽という大きな船が神の願い、合楽の願い即神の願いの船に乗らせて頂いとかなければ、障子一重がままならぬ人の身であるということ。その障子一重がままならぬ人の身であると云うことは、吾れ無力であることの悟りである。その無力なる吾が実意丁寧神信心に依って力を受けることが出来る、徳を受けることが出来る。その徳をもってすることに依って、いわゆるもう人間が出来ると言う事でなくて、いうならば神様のお仲間入り出来る程しの道を教えて下さったのが金光大神だと思います。
 どうぞ一つおかげを頂いてね、先ず障子一重が侭ならぬ身であることを様々な角度からね、分からせて貰う。いやそげんいうばってんわたしは自分で参って来ましたよ、自分で歩いて来ましたよというとる間は我無力であるとは程遠い。昨日も中野さんの御親戚の方達に申しました。本当に遠方からね、天が瀬辺りから参って見えました。しかも親子三人子供さん五人位参ってあったでしょうか。
 今日はこげな風で案内受けとるけれども、一寸何か差し仕えがあるというなら、もうお参りが出来ませんとですからねと、矢張り許されて参っておる。神様のおかげでお引き寄せ頂かれた訳ですから、あなたのおかげを頂かなければ出来ることじゃないというところから、本当に吾れ無力であると云うことが分かる。これが信心の根本姿勢である。そこから実意丁寧の限りを尽くさせて頂いての信心がです、それこそ自分の思う通りになるといった生易しいものじゃない。
 それこそ自分が夢にも思わなかった様なおかげが一人の信心に展開して來る。まあ一番手近な見本というのは私でしょう。ああ成程神様じゃなあと、人がいう程しのおかげを段々頂いて来ておる。神様のおかげを頂かなければ立ち行かん。それが思い込みが出来るところから、神様の心が分からなければおられん。神様の御思いに添わなければおられん事になって來るのです。
 まだ自分で出来るといった考えのあるところに横着が出る。いわゆる実意丁寧の反対は、横着と我が侭と仰るのですから、その横着我が侭が出るのです。神様のおかげを頂かなければ立ち行かん。と分かったら、その神様の心が分かり、その神様の心に添わなければおられんごとなって來るのが信心です。そういう意味合でですね、お互いがいよいよ我無力。障子一重がままならぬ人の身である自覚を作らせて頂いてそこから徳を受けて行く、光を受けて行く信心にいよいよ進ませて頂かねばならんと思うですね。
   どうぞ。